第16話『キャラバン』

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 冷たい。
 額に押し付けられた湿った布の感触に、泥が溜まった池のような眠りから引き上げられた。どれくらい眠っていたのだろう。近くで話し声が聞こえたような気がして、目を覚ました。
「……外の様子は?」
「一通り見てきたが、特に見張られている様子はなかった」
 ボクは声がした方へと首を動かした。その拍子に額に乗せられていた布が落ちる。誰かが眼鏡を外したのか、すべてがぼんやりと霞んでいた。
「気がついた」
 女性の声。鮮やかな赤い髪が見えて、ドロシーだとわかった。
「怪我は」
 ボクは勢いよく身体を起した。
「起きていて……」
 言いかけたとたんに目が暗み、ベッドに倒れた。
 頭がふらふらする。血が一気に下がったみたいだ。
「いきなり起き上がろうとするからだよ」
 今度はハスキーな声が言った。
「ブックさん? 近くにいるんですか?」
「ああ、そうだよ。枕元にいるよ。……眼鏡ならそこのテーブルの上にあるぞ」
 ボクはゆっくりと半身を起した。今度はさっきのように血が下がることはなかった。
「ここは……」
「【笑う海猫亭】だ。あれからここまで運んだんだ」
 眼鏡をかけて改めて周囲を見渡すと、心配そうにこちらを見ているライと目が合った。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「まったくだ。黙って出て行くことないだろ。連れも心配していたぞ」
 ブックの背表紙を軽く小突くライの仕草は、前にボクを撫でたときと同じようなものだった。「犬や猫じゃない」とブックは抗議した。あまりに親しんでいる光景に、呆然となった。
「……驚いたでしょ」
「さすがにビックリした。……いや、何かいるなとは思ってたよ。夜中なると鞄からイビキが聞こえたから」
「あたしは、鞄だと思い込んでいたよ。でもまさか、ねぇ」
 ため息をついた。必死に隠していたつもりが、無駄だった様だ。
「安心しな。あんたの友達を売り飛ばすほど、堕ちちゃいないよ。……これは忠告だけど、今度からいつも以上に気をつけないと。教会に目つけられたら、終わりよ」
 ボクはドロシーを見た後、ブックとライの様子を眺めた。珍しさからなのか、それとも子供のように思えるのか、ブックに対する2人の反応は友好だ。否、“友好”というより“面白がっている”割合が強い。
 信用して、いいのだろうか。
「おい! いつまでやってるつもりだよ」
「すまん、つい。でも、良かったな。ザヴィアーが目を覚まして」
「……別に」
 ブックはぶっきらぼうに答えた。
「脈も呼吸も安定してたし、単に疲れと緊張が一気にきただけだろ」
「よく言うわね。さっきまで『まだ目を覚まさないのか』、『脈を計ってくれ、熱はないのか』って騒いでだくせに」
「なんだよ。そっちこそ、安静にしていなかったから、さっきオッチャンに怒られたじゃん」
「へ、平気よ。これくらい」
「どこがだ」
 ライは怒った声を出した。
「またそうやって」
「本当だってば」
 彼女の笑みが僅かに引きつっていた。我慢しているとすぐわかった。動脈までいっていなかったとはいえ、決して浅い切り傷ではないのだ。
「あの……」
「そういえば、応急処置はあんたがやったんだってね。途中まで運んだのも。……あと、止めてくれたことも。ありがとう」
「そんな、お礼の言葉なんて……」
 全部ボクのせいなのに。ドロシーを見ていて痛々しく、どう言えばいいのか迷った。巻き込みたくないと決めておきながら、結局迷惑をかけてしまった。ボクは俯いたまま、拳を握り締めた。
「さっき下で聞いたんだが、今朝からこの辺りをうろついていた怪しい奴を、給仕が目撃したらしい。お前が飛び出したのは、そいつが原因か?」
 路地の影からこちらを窺っていた人だ。ボクは黙って頷いた。
「やはりな。それなら一言相談してくれてもよかったのに」
「そいつって、あんたを捕まえようとした仲間かな?」
「その可能性はある。それよりも気になっていることがある。……ブックは何だ?」
「それは……その……」
「なあ、本当に襲った奴らに心当たりないのか? こうも連続だと何かあるとしか思えない」
 ライの一言一言に力がこもる。
「全部話せとは言わない。だけど少しくらい話してくれてもいいんじゃないのか?」
 ライは再びブックの背表紙を軽く撫でた。
「それとも、こいつの方が詳しいのかな?」
 『困ったときはお互い様』。それができれば、本来は素晴らしいことかもしれない。
 でも、その重みが思った以上の存在だったら? 関係ない貴方たちが押しつぶされたら? どうしようもないくらい不安が、後から沸いてくる。
 でも、2人は何も言わずにボクたちを助けてくれた。ここできちんと話せることは、話した方がいいだろう。
「ボクがある人を探していると話しましたね。その人の名は、クルークといいます」
「クルーク? 確か、記録館の館長がそんな名前だったような……」
「はい」
 ボクは『真実の書』のことを除いて、1年前のことを順を追って話し始めた。ブックとの出会い。その後旅に出て行方が分からなくなった館長。その館長から届いた不可解な手紙。そして、ボクを捕まえようとした人たちも館長を探していること……。
 でも、まてよ。ボクはそこまで話して改めて考え始めた。あの覆面たちは『真実の書』自体どういった書物なのか、わかっていなかった節がある。そうなると個人的な目的ではなく、誰かに依頼されたのかもしれない。
 そうだと仮定するとして、依頼主は少なくとも『真実の書』の存在を信じ、知っている人物ということにならないだろうか。
 ふと、ボクはあの時拾った銅製のメダルを思い出した。
「ザビ、どうしたんだよ? さっきから難しい顔して」
「手がかりになるかどうかわかりませんが、彼らのものと思われるものです」
 例のメダルを2人に見せた。正直危険ではあったが、ボクとしても少しでも情報が欲しい。それに、もしこれで彼らが遠ざかっても、それでもいい。
 掌の中で、そのメダルが妙にずっしりと重く感じた。そこには歯車に絡みつく双頭の蛇が描かれていた。何者も逃がさないかのように巻きつく蛇が酷く不気味で、その形は無限(インフェニティ)を記す印にも、メビウスの輪にも似ていた。
「知らないな、この紋章は。それにしても気味の悪い形ね」
 ドロシーはすぐさまライにメダルを手渡した。そして、訝しげな顔でボクをじっと見た。ボクは次に出てくる言葉に、固唾を呑んで待った。
「あんたの旅の目的と、探し人のことはだいたいわかった。だけど、肝心なことを言ってないよ」
 ドロシーは今度はブックを見つめた。ライもメダルから目を離し、真剣な顔つきになった。
 本当のことを語ることはできない。貴方たちは『真実の書』のことを知らなくていい。否、知る必要はない。
「話せません」
 しん、と静かになった。
「あのさ」
 先に沈黙を破ったのはブックだった。
「オレの存在が他と違って“異常”だってことくらい、分かっている。お前らが気になるのも分かる。普通、本が喋ったりしないもんな」
 ブックから発せられた声に、どこか哀しい響きがあった。
 夕べもこんな声だった。それに気づいたとき、ボクはブックのことを何も知らないことを思い知った。
「オレも分かんないんだ。どうして、こんなのなのか。どうして、オレが作られたのか……」
「悪かったよ。別にそういうつもりじゃなかったんだよ。あんたたちの口から話すまで、こちらからは何も訊かない。でも、いずれ、ね」
 ドロシーはブックの表紙を優しく撫でた。それを見てボクはほっとした。


「それで、これからどうする気?」
「東へ向かいます」
 危険なのは重々承知だが、引き返すことはしたくなかった。記録館に戻ったところで何もならない。ボクが得たい“答え”が、永久に失われてしまいそうで、怖いのだ。
「ちょうどいい。あたしらも東へ行くことになったんだ」
「どういうことですか」
「新しい仕事が入ってきたんだよ。ほら、鉄道が止まっちゃったでしょ。輸入、輸出が滞って、ギルドも猫の手を借りたくらいの状況なんだ。“賢者の都”近くなんだけど、どうせならその周辺を回ろうかと。良ければ、どお?」
 一緒に旅することは心強いと思おうとした。けれど、リスクも大きい。
「ボクと一緒に行動を共にすると、本当に危険ですよ。それを分かっていながら首を突っ込まないでください」
「たまたま目的地が近いって思えばいい。それに、さっきあたしが例えで出した荷馬車のことも含めてよく考えてみな。1人で街道を歩くのと、複数で街道を歩くのとで、どちらの方が生存率が高いと思う? 」
「なんて意地の悪い問いを」
「真面目な話よ。ほらほら。答えてみなさい、学者さん」
「……何かあった時に対処しやすいのは、複数です」
 なんだか悔しい。
「ライさんは」
「もちろん、俺はオーナーの決定に従うよ。元々意見は一致していたからね」
「オレは賑やかなのは大好きだ。それとザビ、財布軽いんだからそれを考えると」
 ボクは慌ててブックの開き口を塞いだ。それをドロシーの前で言わないで欲しかった。案の定、彼女の顔に満面の笑みが広がった。
「それは難儀だねぇ。……よし、あたしがあんたを雇おう。期限は“賢者の都”まで。その間の必要最低限の経費はこちらが持つ。その後どうするかは、相談するってことでどう? もちろん、働いてね」
 ボクはため息をついた。こちらが何を言おうとついてくる気のようだ。
「ご一緒してもよろしんですか?」
「東へは元々考えていたことだよ。それに、あんたって見ていて危なっかしいんだよね。おせっかいだと思っていいよ」
「本当ですよね。お人よしのおせっかいで、遠慮なく拳で殴りますし」
 それでも一緒にいれたらと願ってしまう自分は、わがままなんだろうか。照れくさいが、大事なことはきちんと言わないと。
「あ……ありが、とう。それと……これからも、よろしく」


第15話/ 目次/ あとがき
2007/06/10  黄伊魔