第15話『途切れぬ追跡』

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ボクたちはそのまま来た道に引き返し、早足で大通りに向かった。先頭のドロシーの歩調が速く、ボクは追うのがやっとだった。遅れまいと必死になったが、徐々に距離が広がっていった。
 Y字路の所でドロシーが待っていてくれた。そこまでたどり着いて、ボクは塀に手をついてうつむいた。息を吸おうするたびに反射的に咳き込んだ。
「姐ちゃん、あとどれくらい? ザビがかなり限界みたいだよ」
 大げさな。でも、言い返す気力がわいてこない。
「あとほんの少しだよ……ん?」
 振り返ったドロシーが、遠くの路地をじっと見た。
「どうしました?」
「……今、向こうの通りがチカチカ光らなかった?」
 チカチカ光る? 灯りにしては妙だ。しかし、辺りは閑散としていて野良犬すらいなかった。特に目につくようなものは見つけられない。
「気のせいじゃない? オレはここからじゃ見えないから、わかんないけど」
 それもそうか、とドロシーはボクの鞄を軽く撫でる。
「……それなら、いいんですけど」
 ゆるい坂道を下りながら、ボクはさっきの灯りのことを考えていた。
 チカチカ光る……明滅……光……。
 ――なんだろう。さっきからそのことが引っかかる。本当に只の気のせいなのか?
 このまま何事も起こらなければいいのだが……。そんな思いが強くなる一方だった。
 何度目かの角を曲がったところで、小高い塀が続く狭い一本道に変わった。見た限り、抜け道や隠れる場所はない。こんな所で挟まれたらやっかいだと逡巡していたその時、ボクたちはその場に凍りついた。後ろから足音が聞こえきたのだ。
 数は1つ、いや……2つだ。向こうの壁に人影が映り、それがだんだんと伸びてきた。「この辺りのはずだ」「今度こそ」と、囁き交わす男たちの声が微かに聞き取れた。
 そうか。例の光の正体が、彼らの間で使われる信号だったとしたら。もっと早く気づくべきだった。
 ドロシーを見ると、すでに剣の柄を握っていた。ボクは慌てて彼女の腕を掴む。護衛の経験があると言っていたが、この状況は危険すぎる。
「一気に駆け抜けましょう。いくらなんでも2人も相手をするのは、分が悪すぎます」
 ドロシーは困惑したようだったが、察してくれたのか黙って頷いた。よし、とばかりにボク達は全力で駆け出した。同時に背後から叫び声が聞こえた。
「いたぞ!」
「待て!」
 荒く猛々しい声が響いても、決して振り向かなかった。とにかく逃げ切るしかない。
 路地を抜けると、そこは運河だった。波止場付近には1隻の舟が水面に浮かんでいた。倉庫が立ち並び、泥炭が詰まれた籠や、大きな樽や、鉄板が積み上げられていた。
「あの階段を上がって橋を渡れば、もうすぐだ」
 ―――もうすぐ。
 その橋を見上げた瞬間。いきなり背中を突き飛ばされ、頭に衝撃が走った。倒れる途中ふっと意識を失いかけたが、髪を乱暴に掴まれ、固い敷石に押さえつけられた。
 狂ったように、ボクの名前を呼び続けるブックの声が聞こえた。
「手間をかけさせやがって!」
 耳朶に怒りの声が降りかかる。右手首を後ろに捻られ、ボクは痛みと息苦しさに顔をしかめた。
「そいつを放せ!」
 ドロシーは細い剣と短剣を瞬時に抜いて、こちらに駆けつける。そこへ後からやって来た大柄の男が、剣を抜いて割り込んできた。長く、見た目にも重そうな剣を両手で握り締めている。
「ドロシーさん、逃げて!」
 打ち鳴らす金属音がこだまし、互いに押し合う形となった。力の差がありすぎるのか、ドロシーは相手の攻撃を食い止めるので精一杯の様子だ。
 だんだんと下向きに押され、ついに細い剣が弾き飛ばされてしまった。彼女の二の腕からポタポタと血が滴り落ち、その顔は激痛に歪んでいた。
「にげ……」
 逃げてほしい。ボクのことを見捨ててもかまわない。
 それでも彼女は怯まず短剣を閃かせるが、寸前の所で相手に手首を掴まれてしまう。
「女は女らしく、大人しくしていろ」
 ドロシーの身体が、積み上げられた木箱の壁に叩きつけられた。それっきり動かなくなった。
「よくも、よくも!」
「くそっ、大人しくしろ!」
 ボクは首に回している腕に思い切り噛みつくと、相手はたまらず腕を離した。その隙に肘に渾身の力を込め、拘束を払いのけることができた。ドロシーの所に駆け寄ろうと、そのまま大柄な男の脇をすり抜けようとした。ところが、後ろから片方の肩をぐいとつかまれ、殴られた。倒れる寸前に咄嗟に受身をとるが、さらに腹部を膝で蹴られ、息が詰まりそうになってうずくまった。
「逃げられるとでも思ったか」
 振り上げられる腕が見えて、思わず目を瞑った。しかし、何時まで経っても衝撃が来なかった。
「そのへんにしておけ。そいつには喋ってもらわなきゃならないことが山ほどある。さっさと合流する……ん? なんだ、この本は?」
 ブック!
 ボクは外へ放り出されたブックに手を伸ばすが、相手の方が早かった。背表紙をがっちりと掴まれたブックは、叫び声をあげ続ける。さすがにブックを手にしたリーダー格の男も、仲間の男も驚きの表情を見せた。
「どうやら予想以上の収穫になりそうだ」
 男に確信の笑みが広がる。
「運がなかったと、諦めるんだな」
 もうどうすることもできないのか。自分のこぶしを強く握り締める。視界が涙で霞んできた。
 そのときだった。肉を突き刺すような音と血の匂いがしたのは。
 リーダー格の男が、咽ながら波止場に膝をつく。ブックの悲鳴がさらに大きくなった。彼の腹部からは、叫ぶかのように血が溢れ出ていた。ボクは波止場上に落ちたブックを、急いで拾い上げる。
「ドロシー、さん?」
 彼女は刺した時と同じ構えで、ボクの傍らに立っていた。……恐ろしかった。その目に暗い炎を宿しているかのようで、どこか危うさもあった。腕の中でブックが怯えていた。
 咆哮をあげてドロシーが地面を蹴った。だが、行く手を遮るかのように一本のナイフが板に突き刺さる。血だらけの男が落ちるように舟に乗り込んだのは、ほぼ同時だった。
 相方はすぐにオールを漕ぎ出した。舟はうまいこと流れにのったのか、どんどん小さくなっていった。

「大丈夫ですよ。大丈夫」
 ブックを抱え、よろめきながら立ち上がろうとした。掌に何か冷たい感触があった。それは銅製のメダルだった。彼らが落としていったものだろうか。血で汚れていた。
「逃がすか!」
 怒りの声に顔を上げると、ドロシーが下流に向かって駆け出していくのが見えた。まさか、追いかける気なのか。メダルをポケットの中へ突っ込むと、慌てて走った。
「やめてください」
 よろめきながら、ドロシーの腕をしっかりと掴んだ。
「離せ! あいつらを……あいつらの血肉を黒こげに変えてやるんだ!」
「……バカですか、貴女は!」
 ボクは声高に叫んだ。
 ドロシーの目からあの炎が小さくなっていくのがわかる。静まりかえる中、ドロシーは当てもなく視線を彷徨わせ、俯いた。なんだか、彼女がひどく幼く見えた。
 ドロシーが体制を崩して倒れ掛かった。
「しっかり……しっかりして下さい」
 返事が返ってこない。一瞬、黒い何かが降り立つ不吉な予感がした。
 ふと自分の手を見た。心臓がひとつ、大きく鼓動する。

 あかい、いろ。……アカイ、いろ。
 ボクは喉を締め付けられたかのように、声がかすれて出なかった。引き寄せられて、抗らえず、その鮮血に釘付けになって、震え始めた。

「ザビ! ザビってば!」
 ブックの声に我に返った。腕の中でドロシーがうめき、身を震わせた。
 生きている……。
 よかったと思いたいところだが、早く手当てをしないと。でも、どうやればいいのか頭ではわかっているのに、手が彫像のように動かない。
「しっかりしろよ。お前しかいないんだぞ。止血の方法ならオレが伝授してやるから、ザビは手を動かせ、手を」
「は、はい」
 鞄の底から布を引っ張り出し、ブックに教えられたとおりに患部を縛った。応急処置を済ますと、ドロシーをおぶった。
「おいおい、ふらふらしているみたいだけど」
「平気ですよ」
 一刻も早く落ち着いた場所に移動しないと。歯を食いしばり、橋を渡る。なんとか歩くのが精一杯だった。これでは時間がかかり過ぎる。
 すぐ先の十字路で、通りを横切ろうとしている傭兵の姿に目が留まった。その人のあご髭に、青いリボンが揺れていた。
「ライさーん!」
 力の限り叫ぶと、その人は振り返った。よかった、やっぱりライだ。
「どうしたんだ! 一体、何が……」
「いろいろ、あり……ありまして……」
 あがった息をなんとか整えた。
「ドロシーさんが、大変なことに。早く、早くしないと……」
 急に視界がぼやけた。張りつめた緊張と疲労が一気に溢れ出し、五感を奪い取っていく。
 オーナーなら大丈夫だ。沈んでゆく意識の中、それだけがなんとか認識できた。あとは、何もわからなくなった。


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2007/04/01  黄伊魔