別れは辛く、心が重かった。それでもボクは宿屋から離れ、城壁の門へ急いだ。2人に何も言わずに去ることに、ブックは抗議の声をあげた。
「これでいいんです」
「ザビの意地っ張り! 本当は……」
「ブックさん」
それ以上言わんとしている言葉を聞きたくなかった。
「ボクにはボクのやるべきことが、彼らには彼らのやるべきことがあります。それだけのことですよ」
―――そう。
半ば自分にも言い聞かせるように呟いた。
―――只、それだけのことなのだ。
ところが、門が見えてきたところまで来て、ボクは思わず石造りの建物の陰に隠れた。門の近くには大柄な男と、擦り切れたマントを羽織った浮浪者がいた。嫌な予感がしてじっとしていると、彼らの話し声が聞こえてきた。
「眼鏡をかけた黒いローブの学者だって?」
「そうだ。まだ若い男でな、そいつを見かけたなら教えろ。銀貨をやるぞ」
ゆっくりと、足音を立てないように引き返し、細い路地に逃げ込んだ。しばらく走った後、壁に寄りかかり、息をついた。濡れた髪が額に張りつく。
さっきの大柄な男―――昨日のリーダー格の覆面だろう。様子からして、彼らは決してあきらめていないようだ。宿屋で感じた視線は彼らだった可能性が高くなった。
でも、どうしたらいい? 己に問う。いくらフリージアが広いとはいえ、このままではいずれ見つかってしまう。
「今からでも遅くないから」
ややあって、ブックが話しかけてきた。
「宿に戻ろう、な? このままじゃ見つかるし、オッチャンや姐ちゃんに訳を話せばきっと力を貸してくれるって。我ながら悪くない案、だと思うぞ」
「そんなことをしたら2人に迷惑がかかります」
「まだ言うかよ。あいつら、それを承知でザビを助けてくれたんじゃないのか?」
それでも……、と言いかけてふと背後に人の気配を感じ取って振り返った。はっと息をのんだ。いつの間にかドロシーが立っていた。全身に鳥肌がたった。
「誰と、話していた?」
「見てのとおりですよ」
努めて笑ってみせた。
「怖いこと言わないでください」
なるべく平静を装ったが、はたしてどうだろうか。ドロシーの目が鞄に向けられた。何かを探るように目じりが鋭い。
「それで、何があった?」
ブックの言うとおり、ここで助けを求めれば、話せば、力になってくれるかもしれない。だけどそのせいで、もし彼らにまで危害を加えるようなことになったら……。
ちょうどその時。一陣の風がボクとドロシーの間を吹きぬけた。長くなった前髪が視界を遮る。
やはり巻き込みたくはない。そのためなら、冷たく切り離してでも―――。
「もう我慢できない! 姐ちゃん、オレたちを助けてく、れ」
ボクは慌てて鞄ごとブックを押さえつけるが、もう無駄だった。「ごめん、つい」と弱々しいブックの声が聞こえた。
ドロシーは目を大きく見開き、驚愕を顕わにした。ごく自然な反応だ。
「こっち!」
彼女の緊迫した声に疑問が生じた。彼女の目線がボクの遥か後ろだと分かり、振り返った。こちらに向かってくる人影が見えた。背筋に悪寒が伝わった。あの大柄の男だ。
「急いげ!」
ドロシーに引っ張られて、その場から急いで走り出した。何度か躓きながらも、曲がりくねった細い路地を抜けた。そしてボク達は、道端に置かれた大樽の陰に身を潜めた。
すぐに追っ手が傍を通り、いったん足音が止まった。ボクは目を閉じ、必死に見つからないことを念じ続けた。
ひどく長い時間が過ぎていったように感じた。やがて、悪態と共に足音が徐々に遠のいていった。
あたりはしんと、静まり返っていった。
「行ったようね」
大樽から顔を覗かせたドロシーは胸を撫で下ろした。ボクは一気に力が抜けて、樽にへたり込んだ。
じわり、じわりと、やってくるのは今まで押し殺してきた感情だった。震えがきて、歯がガチガチいった。
怖い……。
一点の染みがあっという間に広がるように、それがせり上がってきた。暴れだす己を抑えようと、うずくまり肩を抱いた。どうしようもない恐怖にうめき声をあげそうになり、指に力を入れて爪を立てた。
ボクの肩に別の手が触れてきて、はっとなった。
「独りじゃないんだ。今は、あんただけじゃない」
ボクの手が伸び、その手を掴んだ。
冷たくなった手。……手袋もしないで。
居た堪れなくなって、その手を払いのけてしまった。
「貴女には関係のないことです」
「ザビ? お前、何言って……」
「黙ってて下さい」
自分ではないみたいだ。そう思えるくらいの声と言葉が、ボクの口から発せられた。
「元来、人の道は異なっています。平行に、或いは交差することがあっても、それは一時的なことです。助けてくれたことにはとても感謝しています。けれど、本来はボクの問題です。これ以上巻き込むつもりはありません。もうボクのことなんかほっといて逃げて下さい。それに」
わななく唇を血の味がするまで強く噛んだ。躊躇いは、消えた。
「所詮、他人なんですから」
突然、左頬にドロシーの拳が飛んできた。
「あんたの本心が聞きたいね」
一瞬耳を疑った。見捨てられてもいいようなことを言ったのに。声が、出なかった。
「探している人がいる。その人を見つける。それがあんたの旅の目的じゃなかったの? こんな所で捕まったりしたら、それができなくなるんだ。それで良いのか! あんたがほっといてくれって言うなら、それでも結構よ。だけど、あたしの方から今のあんたをこの場に置き去りにする気は、さらさらないからね!」
そう言い放ったドロシーを見て、ボクはいっそう不安に駆られた。一方で、旅の目的を危うく伏せるところだった。そして、捕まりたくないというのも事実だ。
我ながら矛盾している。ボクは苦笑した。
固く握られた彼女の拳がゆっくりほどけて、ボクの左頬に触れた。冷たい手が不思議と心地よかった。殴られたせいかとも思ったが、それは違った。
「30が限界の荷車に50を輸送しなきゃならない場合、どうすればいいと思う? 乗せられない20を他の手段で―――それそこ他の荷車でも、人手でも、動物でも何でもいい。一緒に輸送すればすむんだよ。効率的且つ確実だからね」
「まさか重みを共有することで、異なった道が統合することが出来るなんて言いませんよね?」
「もっと簡単に考えなさいよ。困ったときはお互い様だ」
「あ、オッチャンと同じこと言ってる」
「こら、ブックさん」
言ってしまって、ボクはドロシーを見た。彼女は、もう分かっていると言いたげな無邪気な少女のように、微笑んでいた。
「……お人良し」
「あんたこそ」
「礼金は出ませんよ」
「路銀は大事にするもんだよ」
ボクたちは、しばらく黙って互いに顔を見合わせた。
「まずはライと合流しよう。ここでじっとしてても、そのうち見つかるし」
「そうですね。あの人たちが諦めるまで待っていたら、それこそ何時になるやら」
遠くから足跡が聞こえてきた。
「……行きましょう」
ボクは裾を払って立ち上がった。