視界から覆面たちの姿が完全に消え去った。ボクは突っ立ったまま肩で大きく息をした。2人に出会わなかったら今頃どうなっていたか……。そう考えるとさらに背筋が寒くなってきて、両腕をかき抱いた。
「おい、しっかりしろ」
ライに肩を揺すられ、ボクはびくっとして声がした方へ顔を向けた。
「怪我はないか?」
「……ええ。あ……ありがと、ござい、ます」
情けないことに、か細い声しか出なかった。膝は笑い、ひどい震えを抑えることができなかった。
「顔色が真っ青じゃない」
ドロシーが心配そうに覗きこんできた。雹が彼女のバンダナに積もっていた。
「ひとまず宿へ行こう。ついてきて」
その言葉にぎこちなく頷き、慌てて彼女のあとを追った。ふと頭上が光り、ボクたちの影がはっきり見えた直後、轟かせる音を耳にした。壁と壁に挟まれた道を駆け足で通り抜け、やがて【笑う海猫亭】という看板を提げた1軒の宿屋が見えてきた。そして、促されるように、暖かな色に満ちた中へと足を踏み入れた。
古いコートに吸いついてきた何千という氷の粒は、室内の熱によって曇りのないガラスのような水滴へと変わっていく。全身がずっしりと重い。
「ほら」
どこからかタオルが飛んできて、ボクは慌てて両手で受け止めた。
「2人とも、しっかり拭いておけ。特に髪をな」
「ライもね」
ドロシーはバンダナを外した。鮮やかな赤い髪が現れ、濡れて額や首筋に張り付いていた。短い髪を掻きあげながら、彼女はボクの方を向いた。お互い立っていても、目線がほとんど同じ位置だからすぐに目が合ってしまう。
「とりあえず、座って休んでな。何か温まるものでも、もらってくる。話はそのあとでゆっくり聞くよ」
ハーディ・ガーディ(手回しオルガン)やリュートの陽気な演奏。人が行き来する足音。火のように赤くなった男たちの笑い声や野次に話し声。その中で暖炉の泥炭がますます燃え続け、はぜる。―――このどこか懐かしいような物音や光景に、凍りついた緊張が次第に解けていった。
「お待ちどう」
ようやくドロシーが戻ってきた。
「はい、これ」
目の前に小さなコップを差し出された。目が覚めるようなアクアヴィット(ジャガイモから作られた蒸留酒)の匂いが漂ってきた。テーブルには、皿からはみ出しているジャガイモのお焼きが陣取った。フリージアに着いてから、ボクは初めて空腹を感じた。
「温まるならこれが1番。気分転換にもなるしね」
こういう時、どういう表情をすればいいのだろう。仄かな温かさが戸惑いを起こさせた。
「ひょっとして、お酒はダメとか?」
「い、いいえ。そんなことは……」
曖昧に答えながらコップを受け取ると、中身を呷った。冷たい液体が胃に落ちていくと、すぐに火が点いたかのように身体が温まってきた。
「さてと」
夕食が済むと、ライが訊ねてきた。
「単刀直入になるが、どうして追われたのか話してくれないか?」
ボクはコップを置いた。いっそのこと話してしまおうか? 旅の理由も、館長のことも、ブックのことも全部……。
否。ボクはその考えをふり払った。
「すみません。わからないんです」
ボクは言葉を慎重に選びながら説明した。
「図書館の帰りにいきなり追いかけられて、必死で逃げてきましたから……あの人たちが何者なのかも知りません」
「追われた理由もか? あれはただの物盗りの類ではない感じだったが」
胸を鷲づかみにされたような感覚になった。確かに彼の言うとおりだ。あの人たちは館長とブックを探している。
本当は自分でもどうしたらいいのかわからなかった。怖いのを必死に抑えた。
「言いたくないのだったらそれでもいい。ただ……ちょっと気になってね」
「すみません。本当に、その……」
なんて言ったらいいのだろう。言葉にできないくらい申し訳ない気持ちで、口の中が苦くなった。
「ボクは……ある人を探しに旅に出たんです」
自然と口に出た。正直、自分でも驚いた。でも、この2人になら少しくらい旅の理由を話して大丈夫だろう。
「その“ある人”って、誰?」
今まで黙っていたドロシーが、空のコップを置いて訊いてきた。
「……先生です。そして、恩人でもあります。子供の頃から、ずっとお世話になっているんです。文字を最初に教えてくださったのも、ボクが学者になりたいと決めたのも、その先生の影響なんです」
館長に拾ってもらえなかったら、きっとボクは寒さか飢えでこうして生きていることはなかっただろう。ふと、昔のことを思い出した。けれど、あふれ出そうな記憶をすぐに蓋をした。
ほっとして息をつくと、少し喋りすぎたと気がついた。ボクはゆっくりと椅子から立ち上がった。
「すみません。疲れたので先に休みます」
それに、寝る場所を確保しないといけない。
「あ、そうそう。あんたの分はもう宿帳に一緒に書いたんだった。部屋は2階の右側の1番奥だから」
「え? い、いけません、ドロシーさん。ボクのことならかまわず……」
「宿代のことを心配しているのなら安心していいよ。3人で、割り勘!」
ドロシーは「3人」と「割り勘」を強調させた。その笑顔に隠された無言の圧力をひしひしと伝わった。横でライは「やっぱり」と苦笑していた。
「もし、足りないなら立て替えてあげよう。借用書はきちんと書いてね」
「しっかりしていますね。出世払い、と言わないところは」
「もちろん。なんたってあたしは商人だから」
納得ができるあたりが可笑しかった。
一足先に階段を上がったいった。嵐が過ぎ去った静寂の中、自分の足音がやけに大きく2階の廊下に響く。奥で止まり、誰もいないことをまず確認してからブックを鞄から出してやった。何時間ぶりに外の空気を吸い込んだかと思えば、勢いよく手に噛み付いた。
「痛った……もう、急になんですか」
「なんで言わなかったんだよ。助けを求めなかったんだよ。いくらでも機会はあったろ。……あー、くそ! こんなことならオレが喋っとけばよかった」
「ブックさんが話したら大騒ぎになるだけです。それに……関係ない人を巻き込んで、良いわけがありませんよ」
ボクは力なく壁に寄り、赤くなった手を摩った。いろいろなことがいっぺんに起こりすぎた。記録館で勉強に明け暮れていた8年間に比べると、あまりにも濃密すぎる出来事の列だった。
「ったく。で、どうするんだ?」
「ここを出る前に、少し調べてみましょう。他にも東の地域状態も知りたいですし」
あの覆面たちが言っていたことが気になる。館長は何かに巻き込まれているのかもしれない。ブックのことを聞き出そうとしていたのも気がかりだ。
ボクの知らないところで何かが起こっている。言い知れぬ不安を胸に積もらせた。
「お前、無理してるだろ」
何かが突き刺さったようにハッとなった。
「無理なんか、無理は、していません」
「誤魔化すな!」
慌てて見開きを押さえて、息を潜めた。下の食堂から賑やかな声が聞こえてくるだけだった。
「気をつけてくださいよ。誰かに聞かれたらどうするんですか」
「なんでだよ。どうしてザビも、自分ひとりで抱え込もうとするんだよ!」
真っ白な表紙から、小刻みに震えているのが伝わった。
「ブックさん?」
ひょっとして、泣いているのだろうか?
「オレはもう寝る。今日は大声出したから、疲れた」
言うや否や、わざとらしいイビキをかいた。
ボクはこれ以上は何も言わなかった。手を硬く握り締めた。目に見えない影に、少しでも怯えないために。