“フリージア”は大きな街だった。階段状の町“風の山頂”を平らにしても、すっぽりとおさまってしまうのではないかと思うくらいだ。その扇状に広がる街にボクは息を飲み込んだ。
やがて、門の前で門衛たちに呼び止められ、氏名と来訪の目的などを答えた後、台帳に記名すると通してもらえた。そのころになって、ライは後方に目を向けるのを止めて縁に寄りかかった。
「大丈夫ですか?」
「いつものことだよ。それはそうと、早く暖炉で暖まりたいものだ」
「お届け品が先だ」
ドロシーが釘をさすと、荷馬たちにムチを入れてそのまま城壁の中をゆっくりと進んだ。
街に入った瞬間からどこからか塩気の含んだ匂いが漂い、赤茶色のレンガで出来た斑な建物は群れていた。ボクはあっちこっちと街の様子を見ていた。まだ穏やかな雹のためか、すれ違う人々は皆、防寒帽子やフードを深く被っていた。ここが交易の盛んな街であることは聞いたことがあるが、こんなにもたくさんの人と建物を見たのは初めてだった。
外の音に刺激されてか、ブックの唸り声が鞄から漏れていることに気がついた。もう少し、もう少しの辛抱だからと、何度も宥めるしかない。
「なに? 今の声……」
「どうかしましたか?」
わざととぼけてみせたが、ドロシーは目を細め、ため息をついた。
「さっきから何やっているの?」
「あ、その、街と人を見ているんです」
嘘は言ってない。でも、誤魔化しきれるだろうか。
「……そうか。でも、あんまり前かがみになるんじゃないよ」
納得したらしい様子に、ボクはこっそり冷や汗を拭った。
「あ、この辺で降ろしてください」
広場の手前で荷馬車を止めてもらうと、ボクは地面に降りた。おかしな話だが、ほんの少しなのに、何年かぶりに平行な地面に足をつけたかのような感覚だった。
「本当にここでいいの? なんなら宿まで送るよ」
「ありがとうございます。でも、寄るところがありますから、ここで失礼します」
「それじゃ、気をつけるんだぞ」
ライは手を挙げた。ドロシーキャラバンの荷馬車は走り出し、人ごみに紛れるとやがて視界から見えなくなった。
なぜかボクはこんなことを考えていた。あの2人とまた会えるだろうかと。
広場を通り過ぎ、人通りが少なったところで鞄を軽く叩いた。
「お疲れさまです」
「やっとだー! で、何処に向かってるんだ? 市場か? 海か?」
「図書館です」
不満でいっぱいの声があがった。
「つまんない! 街に着いたらまず観光だろ!」
「館長の足取りをつかみたいですから。終わったらどこか見て回りましょう」
「絶対、閉館時間ぎりぎりまでいるつもりだ!」
「声が大きいですよ」
1度黙っていてもらうとボクは耳をすませた。やはり、今まで聴いたことがない低い音が聞こえる。あらためて周囲を見渡し、視界が開けた先へ急いだ。そこに悠然と構えていたのは、海だった。
誰もいないことを再度確認してから、ブックを外へ出した。
「なんだよ。もう図書館に着いて……おお!」
どうやらブックも海を見るのは初めてのようだ。ずっと鞄の中に過ごした窮屈な思いも、これで少しは気晴らしになるといいのだが。そう思いながら、ボクは広大な海を見ていた。
海は、苦しみや悲しみを混ぜ合わせた空の色を映し出し、打ち寄せては引いていく動作を繰り返していた。下の波止場上では、船乗りが積荷を降ろしたり、乗せたりと忙しそうに動いるのが見えた。そして、遥か向こうは空と水面を別つ1本の境界線がずっと続いていた。
「あの向こうには何があるんだ?」
ボクはすばやく頭の中で地図を描き、場所を確認した。
「確か“沈みゆく都市”があったと思いますよ」
「じゃあ、そのさらに向こうは?」
「……わかりません」
もしかしたら、別の大陸があるかもしれないし、ただ海が広がっているだけかもしれない。
「今度はそこへ行こう!」
「待ってください。そんな、突拍子に……」
ボクはブックを落ち着かせようとした。そもそも、この旅の本来の目的は、行方不明になった館長を探すためなのだ。
しかし、ブックの弾んだ声はまだ続いた。
「旅も楽しまないと。今すぐじゃなくていいから。ジイさんを見つけてからでもいいから」
「あのですね、その先へいった人はいないんですよ。それに遊びに来たのではないんですよ」
「夢のないやつだな。ザビが行けばいいだろ。そんで冒険して記録を書いて……うん、我ながら素晴らしい計画だ」
「単にあなたが行きたいだけじゃないですか」
「当たり前だろ。オレは自分では動けないから」
人を噛み付いたことがあるくせに、よく言う。
「それにザビだって閉じこもりがちじゃん。せっかく外へ出たんだから、もっと見ようよ。ダストに興味深々だったくせに」
ボクは額を掻いた。痛いところをつかれてしまった。
「それは……見てみたい、ですけど」
「『見てみたい』じゃなくて、『見に行く』んだよ。ちゃんとオレも一緒に連れて行けよ」
ふと思った。ひょっとしたら、ブックは単に寂しいのを紛らわしているのかもしれない。今までずっと置いてきぼりは嫌だと言っていた。
「……一緒に行きましょうか。いろいろと」
それも悪くないかもしれない。
「全土図書館閲覧ツアーだけは嫌だぞ」
「それもいいかもしれませんね……冗談ですよ」
ボクは、開きかけたブックの見開きを抑えた。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「えぇ! もう?」
「また見に行きましょう」
強い風が吹いた。ボクは、東の空に不穏な色を帯びた雲があらわれたことに気がついた。晩の刻には酷くなりそうな予感がした。