いつもより外の空気は冷え冷えとしていた。手袋越しでも、引っ張られた皮膚の上に無数の針に突き刺さったかのような痛みを感じた。
野営地に戻ってからも、ずっと落ち着かない気分だった。あの酒場での一件以来、ボクとドロシーの間には、気まずい雰囲気が漂っていた。夕食後もずっとこの調子だ。
ライは事故に近いと言っていたが、彼女にしてみれば不愉快な思いをさせてたに違いない。このままフリージアで別れてしまうのは、お互いに嫌な思いが残ってしまうだけだ。
とはいえ、どう和解しようか、どうやって会話を切り出そうか……。考え込んでいると、突然ライが立ち上がった。
「すまないがオーナー、少し仮眠をとるから見張りを変わって欲しい」
考えを中断して顔を上げると、ドロシーが訝しげていた。
「今日の見張りはライが最初だと言ったはずだ。何をいまさら……」
「2人でがんばれよ」
にっこりと笑って去り際にボクの肩を軽く叩き、彼は早歩きで荷馬車の中に入ってしまった。その背中を恨めしく見送った後、ボクはうなだれるように視線を落とし、ため息をついた。
横目でドロシーの様子を盗み見ると、砥石を手にとり細い剣の刃を丹念に研いでいた。研がれていく刃に焚き火の炎が映り、ぎらりと光った。
「なに」
手を止め、肩越しにこちらを向いた。
「女が剣を持つことがおかしいのか? これでも前は護衛をやっていたんだ」
軽く睨まれただけで、ボクは言葉を飲み込んでしまった。謝罪の言葉を、と頭では言っているのに、口から出てくるのは音にもなっていなかった。
「はっきり言え!」
「えっと……な、なぜ商人になったのですか?」
なるべく当たり障りのないように会話を心掛けながらも、内心自分の気の弱さに舌打ちをした。
「お金」
意外にもドロシーは答えてくれたが、その声は温かみの欠片もない、そっけないものだった。刃の向きを変えて研ぎ残しがないか確認しながら、続けてこう言った。
「よく『お金では買えない大切なものがある』っていうけど、皮肉な言葉だよ。生きていくにはお金が必要なものが圧倒的に多いよ。食べ物も、着るものも、薬も、みんなそうだ」
ドロシーの目にほんのわずかな翳りが出てきた。それでも手を休むことなく、再び砥石で磨き始めたその行為は、ボクにはまるで何かから振り払うかのように見えた。
しばらく経って、ようやくボクは本題を持ち出す決心がついた。
「あのときは、本当にすみませんでした!」
「いや、許さん」
なんと言えばいいのだろう。彼女の目は、どの感情を宿しているのか区別がつかない眼つきだ。ボクは目を逸らせないでいるのがやっとだった。
どれくらいそうしていたのだろう。やがて、ドロシーは頬をぴくぴくと痙攣(けいれん)させ、耐えかねたように笑い出した。そんなに笑うことだろうか。そのうち剣先がこちらに向けられて、勝手に動き出しそうに思えた。
「2度目はグーだよ」
「肝に銘じておきます」
でも、さっきより穏やかな声に、ボクはほっとした。
「商人になった理由だけど、お金だけじゃない」
彼女は剣の点検を終えると、鞘に収めた。
「それなら護衛を続けていればいいことだよ。でも、隊商の護衛をやっているうちに、商人になるのも面白いと思うようになってきてね。それで、去年の暮れに隊商の親方が引退したのを期に商人になった」
「いずれはお店を構えるんですか?」
「店ならある」
と、彼女は自分たちを乗せてきた幌つきの荷馬車を指す。
「世界中を旅して資金と人脈を作っていく。そして、いつかベルナール商会と並ぶドロシー商会をつくる」
「すごいですね。自分で計画を立てて、そこまで目標を持っているなんて」
羨ましく思いながらも、ふと疑問が出てきた。
「あの、ベルナールって誰ですか?」
ドロシーは驚いて目を瞬いた。
「聞いたことない? 東のベルナールって」
「いいえ」
背中がチリチリと焼けるような、不吉な予感がしてきた。ひょっとして、知っていないと失礼なくらい有名な人なのだろうか。
「温室育ち。ベルナールと言ったらトップクラスの豪商で、商人ギルドの幹部の1人じゃないか。そんな大物を知らないなんて」
不意に、荷馬たちが嘶(いなな)いた。
その瞬間、不穏な空気に変わった。
「誰だ!」
ドロシーは研いだばかりの剣を正面の雑木林に向けた。荷馬車からライが飛び出した。
誰かいる! そう思ったときには、枯れ木が擦れる音に混じって足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
いなくなったのだろうか。いや、ドロシーたちはまだ剣を持ったままだ。張り詰めた空気に押しつぶされそうだった。
目の前に広がる闇は、すべてを包み隠すように潜んでいた。今にも襲ってきそうな雰囲気さえ感じ取り、ボクの心臓は早鐘のように鳴っていた。
「……逃げたのか?」
ドロシーはゆっくりと剣を収めた。
「今のは……」
「大方、あたしらの荷物を狙う不届き者でしょ。前にライが言ったでしょ、野盗が出るって」
「どうする? ここで休むか、移動するか」
キャラバンのオーナーはじっと雑木林を睨みつけた。意を決して顔を上げた。
「移動しよう」
ライは無言で頷くと、すぐに作業に取り掛かった。
「それから」
とボクの方を向いた。
「あんたは荷馬たちを馬車に繋ぐのを手伝って」
まだ休ませてくれないのかと講義するかのように、荷馬車はひどい揺れをおこした。それでもドロシーは馬にムチ打ち、限界まで走しらせた。
ボクは縁につかまっているのがやっとだった。大変な時に自分は何をやっているのだろう。2人とも顔は見えないが、荷馬車内は緊迫していた。でも、こういった経験も、身を守る術もない自分はそこの荷物と大差ない。出来ることといえば、ふたりの邪魔をしないことだけだった。
ようやく雑木林を抜けることができた。本当にもう追手は来ないのだろうか。休憩を取っている間、ボクは荷台から来た道を見張ったがとくに変化はなかった。休んでいていいと言ってくれたが、とてもそんな気分にはなれなかった。
再び移動して交易路に入ると、遠くから街を取り囲む高い城壁が見えてきた。