しばらくたった夜の時間。荷馬車に横になり目を閉じても、ボクはなかなか寝付けなかった。
久しぶりだった。1つ鍋から同じ食べ物を分け合って、誰かと一緒に食事をするは。その感覚がまだ自分の中に残っていた。
「ザビ、起きてる?」
「静かに」
鞄をそっと押さえ、すぐ近くで仮眠をとっているライの様子を見たが、起き上がる気配はない。ボクはほっとして眼鏡を手探り、荷馬車から降りた。
西の領域を支配する山々が、雲で見え隠れしていた。確かあの辺に“風の山頂”があったはず。磁石を取り出して方角を確かめた。
あんなに小さく、遠い――。ときおり吹いてくる風にのって雲が流れていき、しだいに見えなくなった。
「楽しそうだったじゃん。いっそのことついていったらどうだ? いろいろ回っているみたいだし。それに、うまくいけばジイさんを見つけられるかもしれないぞ」
「でも、迷惑をかけるわけにはいきません」
近くの焚き火の音が、いやに耳についた。すると、「遠慮するな」とあの言葉と温かさがよみがえった。すぐに振り払った。
いつまでも甘えるわけにはいかない。あの人たちにはあの人たちの生活があるのだ。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
そう言って、視線を落とした。
「ブックさん」
「ん?」
「記憶って不思議ですね」
ぽつりと、ボクは呟いた。
「どんなにたくさんの単語を正確に並べられた書物から引き出すよりも、ほんの些細な色や音だけで、鮮明に呼び覚ましてしまう」
風がほんの少し強く流れていった。
……もう寝よ。ボクは再び荷台に戻っていった。
それから2日間は、あっという間に過ぎていった。激しい雹に降られて洞穴に避難したり、野犬に襲われたこともあったが、人に出会うこともなく進んでいった。
荷馬車に揺られながら、ドロシーとライはいろいろな話を話して聞かせてくれた。
“フリージア”という名前が、実は初代領主の奥さんの名前から取った話(それまでボクはずっと、花の名前からつけたのかと思い込んでいた)。南に広がる“めめんと森”に間違えて入りかけた話を聞いたとき、ボクは自分の耳を疑った。
「そんな危険な森にまで行ったんですか」
「運良く助かったけど、2度と近づきたくもないね。あの死の森には」
荷馬車が上下に大きく揺れたそのとき、ライが離さずに持っていた、布に包まれた細長いモノが転がり出た。それは細長い筒状で、先端には深く暗い穴が続いていた。ボクは見ているうちに、命が吸い取られていくような気がした。瞬間、それが何かわかった。
「ライフル銃ですか」
本物を見たのは初めてだ。先端から握るところまで目を追っていくと、エンブレムを見つけた。古代サカサ語が彫られたとても短いものだ。
『Erif』、火……破壊と再生……を司る……か。
エンブレムをなぞり、呟いた。何故サカサ語が刻まれているのかも気になったがそれよりも、どうして一般の傭兵がライフル銃を所持しているのだろう?
「どうやって申請をなさったんですか? 確か教会で規制が……」
「ところで、“沈みゆく都市”の話はしたっけ?」
陽気に言いながら彼がすぐに包み直したのを、見逃さなかった。あからさまに話を逸らそうとしている態度にも気になった。
「その名のとおり、少しずつ氷河の海に沈み続ける都市でね。数年ごとに積み上げて高くしていくんだ。臨機応変に」
「あたしはいつ聞いても、大雑把としか思えないね」
「変わった都市ですね。……話を戻しますけど、申請は」
「“沈みゆく都市”と言ったら、『ダスト』を忘れちゃいけないな」
初めて聞く言葉に、ボクは口を閉ざした。『ダスト』、それだけで興味を引きつけられた。
「年に1度だけ海が光る現象なんだ。口では表現できないが、とてもすばらしい光景だよ」
海が光るだって? 目を白黒させた。このとき初めて、全部を投げてでもいいからそれを見てみたいと思った。
そうしている内に、小さな宿場町に到着した。
どこだかわからない。黒い雲がじわじわと、覆うように広がり、暗闇となった。唐突に、鋼と鋼が鳴る響き、助けを求める声、規則正しく何かが動く音……混ざり合い、やがて遠ざかってゆく……。
ふと、色褪せた外套が、ボクの前を通り過ぎていった。あれは館長がいつも着ていたものだ。追いかけてゆくと、光る穴が現れ、外套はそこへ姿を消した。ボクも穴に入った。
出たところは記録館の書庫室だった。でも、人の気配はしない。上から物音がして、ボクは階段を駆け上がってゆくと、別の棟であるはずの時計塔についた。
大小さまざまの歯車が少しずつ、確実にずれている。とても耳障りな重い音を立てて、回っている。
逃げ出したい……
でも、逃げられない……
でも、逃げたくない。
音がするたびに何かに押しつぶされそうになる。崩れそうになる。これ以上支えきれない。ふいに、風に吹き付けられた。足場は簡単に崩れ、落ちていった……。
そのうちゆっくりと景色が流れ、足元に森に囲まれた小さな村が見えてきた。ぽつりぽつりとある背の低い家。お祭りの時に使う祭壇……。やがて、一番奥に建つ家の前に足が地面についた。目の前にあるドアに手を伸ばしかけて、止めて、上を見上げた。煙突から煙があがっている。
これは夢だ。でも、ここがどこなのか、誰かいるか、どうしてもはっきりしたかった。取っ手に手を置いて、押し開けた。
中は誰もいない。でも、暖炉にはオレンジ色の火が灯っていた。空気はやわらかく、温かい。呼ばれたような、逆らえないような力を感じて中へと入っていった。ゆっくりと、横線の傷が複数に入った柱に目をやった。子供の頃につけてもらった丈比べの跡だ。
間違いない。ここはボクの家で、故郷――それもまだ平和だった頃の姿……。
急に疲れが出てきて、そのまま柱に寄りかかった。あまりの心地よさに、そのまま深い眠りに入っていった――。