第03話『吟遊詩人』

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凍結の大地が広がっていた。
 時折吹いてくる冷たい風が、まるで何かを悲しんでいるかのように聞こえる気がする。自分がそこに佇んでいることさえ忘れてしまいそうだ。振り返った先は何もなくなってしまった。ただ、手にはしっかりと『真実の書』を持っていた。ここにいても仕方がない。歩こう。
 けれども、どこまで行っても同じ景色だった。もしかしたら、止まっているだけかもしれない。でも、確かにボクは歩いていた。これ以上無駄かもしれないと感じたとき、女性を象った像を中央に、輪になって囲んでいる人たちを見つけた。
 あれはおそらく、この世界でもっとも信仰されている太陽の女神像だと思う。声をかけようと近づくと、人々が一斉に振り返った。その顔をはっきりと見た。すべての顔に生気がない。凍りついた仮面をつけているかのようだ。
 前方から強風にのった雹が襲ってきた。体中が痛い。どんどんその人たちから引き離され、立つこともできなくなる。それでもボクは本を放さなかった。
 目の前に、一緒になって強風にあおられているモノがあることに気が付く。 装飾のない固く閉じた宝箱、黒ずんだライフル銃、そしてガラスの盾・・・・・・



そこで目が覚めた。いつもと変わらないボクの部屋だ。雹が窓ガラスを叩きつける音が聞こえてくる。
 夢か・・・・・・。そう安心したら、体中が重石を乗せられたように鈍くなってきた。 司書官へのプレッシャーのせいだろうか、あんな奇妙な夢を見たのは。それとも、何か別な意味でもあるのか。
 もう少し寝ていようか。うとうとと目を閉じたら、唸るような声が下から聞こえてきた。 慌てて起き上がって後ろを見ると、1冊の白い本がベッドの背中の位置にあった。・・・・・・また、やってしまった。
「あの・・・大丈夫ですか?」
 恐る恐る『真実の書』に訊いてみると案の定、機嫌の悪そうな声を発した。
「大丈夫なもんか。いい加減、その寝相の悪さを直せ。これでもオレは繊細なんだ」
「すみません、ブックさん」
「こんな扱いをするなら、ザビの枕元に化けて立ってやる」
 頭痛がするほどのハスキー声を出す。痛かったであろう本の表紙を撫でながら、ボクはベッドから起き上がった。

『真実の書』ブックに出会って、そろそろ1年になろうとしていた。
 なぜボクがブックの継承者になったのか、わからないままだった。 ボクには何か秀でた才能があるわけでもない。サカサ語を解読できるが、それは学者から見ても少数存在する。ただそれだけだ。
 でも一緒にいる以上、いつまでも『真実の書』では名前がない気がしたので、考えに考えて“ブック”と名前をつけてみた。
「ダサいけど、しょうがないな」
 ため息まじりの意外な答えが返ってきた。そのときからだったと思う。ブックは前より少し、大人しくなった。ボクがページをめくっても、突然閉じるようなことをしなくなった。 何よりも大きな変化は、省略とはいえボクの名前を呼んでくれたことだ。手を挟まれなくなるよりずっとうれしかった。なんだかんだ言って、“ブック”という名前を気に入ってくれたのだと思う。

洋服の上から黒いローブを着て、使い古された茶色の革鞄の中にブックを入れた。部屋で留守番するのを嫌がるので、いつもブックを連れて歩くことにしている。
 今日も各自の郵便受けを開けてみると、やっぱりからっぽだった。静かに郵便受けを閉じて確認が終わらせると、食堂へ向かった。
 そこにはすでに何人か先に食事をしていた。奥の大鍋からまだ温かい豆スープをよそい、パン一切れ乗っている皿をトレーに乗せて、適当な席に座った。
 今日はいつもよりたくさんの話題が、食堂で飛び交っていた。 南の地方でソリ大会が開催された話から、大教会の巫女が行方不明になった事件の話なったが、それからすぐに下の町の【風が歌う亭】という宿屋に吟遊詩人が来ている情報に変わった。そこの1階の酒場には軽食もあるので、馴染みのある店だ。 相づちを打ちながら黙って聞いていた。そのとき、今日の講義がすべて休講になったことが、食堂全体に広まった。
「なんでも緊急会議をやるそうだ」
「それで全部休みですか?」
 思わず隣に座っていた同級生の青年に訊ねてみると、向かいに座っていたおさげの少女が、
「司書官たちが朝からバタバタしていたのを見たよ」
 と、横から付け加えて言った。
 何が起こったのだろう。とはいえ、休みなら課題を終わらせてしまおう。予定を決めると、食器を片付けた。

「休みならオレを酒場に連れて行け」
「ダメです」
 ブックを酒場に連れて行くなど、とんでもないことだ。記録館内ならいい。それ以外の人たちはきっと異質に見えてしまうだろう。それだけは避けないといけない。
「休みは有効に使う。今がその時だろうが」
「休みのときこそ、課題を終わらせたいです」
 もうその話は受け付けないと心に決めて、机に向かって緻密な図形が並んだ教科書を広げた。
「今朝、オレを蹴飛ばして圧し掛かったのは、誰だったかな」
 目線を教科書に集中しようとした。
「そいつが心からのお詫びに連れてってくれたら、うれしいんだけどな」
 ブックの作戦だとわかっていても、今朝のことは確かにボクが悪い。それも1度や2度だけではない。ブックは容赦なく呪文のように繰り返した。
 仕方がない。教科書を閉じて、クローゼットからコートと防寒帽を取り出した。

【風が歌う】亭のドアにたどり着くと、独特の絃の音色が中から聞こえてきた。 中では喋らないようにブックに注意をしてから、ドアを開けた。
 開けた瞬間、まるで全然違う場所に来てしまった感じだ。 そこは、さまざまな声が合わさっているはずの酒場ではなかった。 囲炉裏(いろり)の炎が薪を燃やす音も、今では拍子をとっているにすぎない。 わずかな音を出さないように気をつけながらも、いそいで入り込んだ。
 どこかの民族衣装を着た、褐色の肌に色素の薄い長い髪の人物が中央に座っているのが、視界に入った。 弦楽器を奏でているから、あの人が吟遊詩人だろう。成人になりたてのように見えるから、ボクと歳が近いかもしれない。
 見渡すと、誰もコップすら手をつけていない。その雰囲気に溶け込んで、その唄に耳をかたむけていた。前方は足の踏み場もないくらい、人で埋まってしまっている。その中に記録館の学者が何人かいた。 後ろの壁側が空いているのを見つけた。旅の傭兵が置いている長剣に気をつけながら横を通って、敷物の上に落ち着いて座った。
 吟遊詩人の両腕の腕輪が絃を弾くごとに、揺れては打ち鳴らす。やがて、透き通っているが力強いアルトの歌声が響かせる。


伝えたい言葉があっても
声さえ届かない
どんなに待っていても
想い流れ落ちる雫(しずく)は
ただただ凍りつき
思い出を閉じ込めてしまうだけ

目の奥が痛い。視界がぼやけてくる。思わず目元を触れると指先が濡れた。
「泣かせてしまったようだね」
 あの吟遊詩人が目の前に座っていた。この瞬間からボクとこの人以外、誰も存在していないかのような錯覚が生まれる。 近くで見て、その人の眼がかたく閉じられていることを初めて知った。 ボクは言葉が浮かばなかった。
「この歌のメロディーは、とてもきれい。でも、本当はとても悲しい物語」
 吟遊詩人の手が伸びて、濡れた頬を拭ってくれた。 どこかで時を刻む音が聴こえる。
「あなたは・・・・・・」
 吟遊詩人のまぶたが動く。薄く開かれた目は、炎よりも激しい色だった。
「ソフィーの遺志を継ぐのであれば、これから凍結の世界を知ることになるでしょう。たとえ、風が壁となり刃となっても、星たちはあなたを支えてくれるでしょう」
 手が離れていった。
 どっと拍手の音がわき起こったことに気がつく。あの吟遊詩人はさっきの場所で、軽く会釈をしていた。
 あれは幻だったのだろうか。目元にはその痕跡が微かに残っていた。酒場はいつもの陽気な音を取り戻しつつあった。

「おーい、もしもし、ザビー・・・・・・」
 革鞄から声が聞こえて、手で小突いて黙らせた。右左と確認するが、気づいた人はいない。ほっと胸をなで下ろした。そして、他の人には聞かれないように小声で訊ねてみた。
「さっきの吟遊詩人の声が聞こえましたか?」
「歌ならずっと聴こえた」
 ブックには聞こえなかったようだ。いや、聞こえたのはきっとボクだけだ。 あの人が言っていた言葉・・・今朝見た夢と関係でもある気がした。 自分は本当にここにいていいのだろうか。いつのまにかそんなことを考えていた。
「どうしたのかな?」
 マスターの声が後ろから聞こえた。失礼だが、笑うといつも尖った犬歯が見えてしまうので、何かの動物みたいに見えてしまう。娯楽が少ないここに吟遊詩人が来てくれたことに、喜んでいるのだろう。いつもよりハリのある声だった。
「かわいい子だろ。それにいい声だ。ずっといてくれたら嬉しいけど、月読み民だからね。留まってはくれないだろう」
 マスターは残念そうに言いながらも、忙しそうに後ろを通り過ぎていった。
 月読み民・・・・・・以前読んだ見聞録を思い出した。確か南東にいる遊牧民族の名前がそうだった気がする。旅する民族とはいえ、たったひとりで西の端に位置するここまで来るなんて、よほど何か事情があるのだろう。

だいぶ時間が経ったから、そろそろ帰ろう。
 飲み物代を囲炉裏(いろり)の周りに置いてあるカゴの中にいれると、ボクは防寒帽をかぶりなおして外へ出る用意をする。
「ちょっと待てくれ」
 マスターがポケットから1通の手紙を取り出した。
「ザビ君宛てだよ。朝方ミスティさんが取りに来たとき、忘れて行っちゃってね。彼女にしてはめずらしく慌ててたよ」
 渡された手紙は確かにボク宛てだった。差出人を確かめようとしたが、残念なことにインクが垂れてしまって読めなくなっていた。町に届いたときからこうだったらしい。手に取ると何か重いものが入っているのがわかる。
「ところで、カクテルを飲んでいかないかい?新作の“はりねずみ”カクテルを作ってみたんだけど・・・」
「今日はこれで失礼します」
「残念だ・・・」
 マスターのカクテルに何度頭を痛くしたか、忘れるわけがない。支度を整えると自然と早歩きになった。

記録館へ戻ると、マスターから受け取った封筒の中身を確かめた。 カラスのレリーフが彫られた銀の鍵が1つと、ブックの失われた半身であるページの1枚、そして小さな紙切れだった。

『時間がない・・・真実の書を集めなければ・・・』

手紙にはそれしか書いていない。でも、この筆跡は館長のもので間違いないと思う。達筆すぎるこの字を真似できる人はそういない。けれど、1年ぶりの手紙がたったこれだけだなんて、一体どういうことだろう。嫌な胸騒ぎがしてきた。


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2004/10/04  黄伊魔