凍結の大地が広がっていた。
時折吹いてくる冷たい風が、まるで何かを悲しんでいるかのように聞こえる気がする。自分がそこに佇んでいることさえ忘れてしまいそうだ。振り返った先は何もなくなってしまった。ただ、手にはしっかりと『真実の書』を持っていた。ここにいても仕方がない。歩こう。
けれども、どこまで行っても同じ景色だった。もしかしたら、止まっているだけかもしれない。でも、確かにボクは歩いていた。これ以上無駄かもしれないと感じたとき、女性を象った像を中央に、輪になって囲んでいる人たちを見つけた。
あれはおそらく、この世界でもっとも信仰されている太陽の女神像だと思う。声をかけようと近づくと、人々が一斉に振り返った。その顔をはっきりと見た。すべての顔に生気がない。凍りついた仮面をつけているかのようだ。
前方から強風にのった雹が襲ってきた。体中が痛い。どんどんその人たちから引き離され、立つこともできなくなる。それでもボクは本を放さなかった。
目の前に、一緒になって強風にあおられているモノがあることに気が付く。
装飾のない固く閉じた宝箱、黒ずんだライフル銃、そしてガラスの盾・・・・・・
そこで目が覚めた。いつもと変わらないボクの部屋だ。雹が窓ガラスを叩きつける音が聞こえてくる。
夢か・・・・・・。そう安心したら、体中が重石を乗せられたように鈍くなってきた。
司書官へのプレッシャーのせいだろうか、あんな奇妙な夢を見たのは。それとも、何か別な意味でもあるのか。
もう少し寝ていようか。うとうとと目を閉じたら、唸るような声が下から聞こえてきた。
慌てて起き上がって後ろを見ると、1冊の白い本がベッドの背中の位置にあった。・・・・・・また、やってしまった。
「あの・・・大丈夫ですか?」
恐る恐る『真実の書』に訊いてみると案の定、機嫌の悪そうな声を発した。
「大丈夫なもんか。いい加減、その寝相の悪さを直せ。これでもオレは繊細なんだ」
「すみません、ブックさん」
「こんな扱いをするなら、ザビの枕元に化けて立ってやる」
頭痛がするほどのハスキー声を出す。痛かったであろう本の表紙を撫でながら、ボクはベッドから起き上がった。
『真実の書』ブックに出会って、そろそろ1年になろうとしていた。
なぜボクがブックの継承者になったのか、わからないままだった。
ボクには何か秀でた才能があるわけでもない。サカサ語を解読できるが、それは学者から見ても少数存在する。ただそれだけだ。
でも一緒にいる以上、いつまでも『真実の書』では名前がない気がしたので、考えに考えて“ブック”と名前をつけてみた。
「ダサいけど、しょうがないな」
ため息まじりの意外な答えが返ってきた。そのときからだったと思う。ブックは前より少し、大人しくなった。ボクがページをめくっても、突然閉じるようなことをしなくなった。
何よりも大きな変化は、省略とはいえボクの名前を呼んでくれたことだ。手を挟まれなくなるよりずっとうれしかった。なんだかんだ言って、“ブック”という名前を気に入ってくれたのだと思う。
洋服の上から黒いローブを着て、使い古された茶色の革鞄の中にブックを入れた。部屋で留守番するのを嫌がるので、いつもブックを連れて歩くことにしている。
今日も各自の郵便受けを開けてみると、やっぱりからっぽだった。静かに郵便受けを閉じて確認が終わらせると、食堂へ向かった。
そこにはすでに何人か先に食事をしていた。奥の大鍋からまだ温かい豆スープをよそい、パン一切れ乗っている皿をトレーに乗せて、適当な席に座った。
今日はいつもよりたくさんの話題が、食堂で飛び交っていた。
南の地方でソリ大会が開催された話から、大教会の巫女が行方不明になった事件の話なったが、それからすぐに下の町の【風が歌う亭】という宿屋に吟遊詩人が来ている情報に変わった。そこの1階の酒場には軽食もあるので、馴染みのある店だ。
相づちを打ちながら黙って聞いていた。そのとき、今日の講義がすべて休講になったことが、食堂全体に広まった。
「なんでも緊急会議をやるそうだ」
「それで全部休みですか?」
思わず隣に座っていた同級生の青年に訊ねてみると、向かいに座っていたおさげの少女が、
「司書官たちが朝からバタバタしていたのを見たよ」
と、横から付け加えて言った。
何が起こったのだろう。とはいえ、休みなら課題を終わらせてしまおう。予定を決めると、食器を片付けた。
【風が歌う】亭のドアにたどり着くと、独特の絃の音色が中から聞こえてきた。
中では喋らないようにブックに注意をしてから、ドアを開けた。
開けた瞬間、まるで全然違う場所に来てしまった感じだ。
そこは、さまざまな声が合わさっているはずの酒場ではなかった。
囲炉裏(いろり)の炎が薪を燃やす音も、今では拍子をとっているにすぎない。
わずかな音を出さないように気をつけながらも、いそいで入り込んだ。
どこかの民族衣装を着た、褐色の肌に色素の薄い長い髪の人物が中央に座っているのが、視界に入った。
弦楽器を奏でているから、あの人が吟遊詩人だろう。成人になりたてのように見えるから、ボクと歳が近いかもしれない。
見渡すと、誰もコップすら手をつけていない。その雰囲気に溶け込んで、その唄に耳をかたむけていた。前方は足の踏み場もないくらい、人で埋まってしまっている。その中に記録館の学者が何人かいた。
後ろの壁側が空いているのを見つけた。旅の傭兵が置いている長剣に気をつけながら横を通って、敷物の上に落ち着いて座った。
吟遊詩人の両腕の腕輪が絃を弾くごとに、揺れては打ち鳴らす。やがて、透き通っているが力強いアルトの歌声が響かせる。
目の奥が痛い。視界がぼやけてくる。思わず目元を触れると指先が濡れた。
「泣かせてしまったようだね」
あの吟遊詩人が目の前に座っていた。この瞬間からボクとこの人以外、誰も存在していないかのような錯覚が生まれる。
近くで見て、その人の眼がかたく閉じられていることを初めて知った。
ボクは言葉が浮かばなかった。
「この歌のメロディーは、とてもきれい。でも、本当はとても悲しい物語」
吟遊詩人の手が伸びて、濡れた頬を拭ってくれた。
どこかで時を刻む音が聴こえる。
「あなたは・・・・・・」
吟遊詩人のまぶたが動く。薄く開かれた目は、炎よりも激しい色だった。
「ソフィーの遺志を継ぐのであれば、これから凍結の世界を知ることになるでしょう。たとえ、風が壁となり刃となっても、星たちはあなたを支えてくれるでしょう」
手が離れていった。
どっと拍手の音がわき起こったことに気がつく。あの吟遊詩人はさっきの場所で、軽く会釈をしていた。
あれは幻だったのだろうか。目元にはその痕跡が微かに残っていた。酒場はいつもの陽気な音を取り戻しつつあった。
だいぶ時間が経ったから、そろそろ帰ろう。
飲み物代を囲炉裏(いろり)の周りに置いてあるカゴの中にいれると、ボクは防寒帽をかぶりなおして外へ出る用意をする。
「ちょっと待てくれ」
マスターがポケットから1通の手紙を取り出した。
「ザビ君宛てだよ。朝方ミスティさんが取りに来たとき、忘れて行っちゃってね。彼女にしてはめずらしく慌ててたよ」
渡された手紙は確かにボク宛てだった。差出人を確かめようとしたが、残念なことにインクが垂れてしまって読めなくなっていた。町に届いたときからこうだったらしい。手に取ると何か重いものが入っているのがわかる。
「ところで、カクテルを飲んでいかないかい?新作の“はりねずみ”カクテルを作ってみたんだけど・・・」
「今日はこれで失礼します」
「残念だ・・・」
マスターのカクテルに何度頭を痛くしたか、忘れるわけがない。支度を整えると自然と早歩きになった。
記録館へ戻ると、マスターから受け取った封筒の中身を確かめた。 カラスのレリーフが彫られた銀の鍵が1つと、ブックの失われた半身であるページの1枚、そして小さな紙切れだった。
『時間がない・・・真実の書を集めなければ・・・』
手紙にはそれしか書いていない。でも、この筆跡は館長のもので間違いないと思う。達筆すぎるこの字を真似できる人はそういない。けれど、1年ぶりの手紙がたったこれだけだなんて、一体どういうことだろう。嫌な胸騒ぎがしてきた。