「やあ、ザヴィアー君」
その穏やかな声を頼りに薄暗がりの中を眼を凝らすと、シワがよっている色あせた外套を羽織った老人がいた。この人こそ記録館の館長であり、ボクをここに入れてくれた恩師だ。透けてきた白髪をなで、にこにこしながら館長は事務机に戻り、椅子に腰掛けた。そのとき、インクの染みがまばらの指に嵌めている銀の指輪が、ロウソクの炎に淡く反射した。
「きちんと食事をとっているだろうね?」
焦って「はい」と答えると、館長は少し眉をひそめた。
「一生懸命にやろうとする姿勢は、良いと思うよ。ただ君の場合、集中するとお腹が空く感覚が鈍るみたいだからね。体調が回復したばかりなんだから、もっと自分を大切にしなさい」
「……気をつけます」
館長の眉が緩んでも、ボクは落ち着かない気持ちだった。一体何の用で呼ばれたのか、わからないままだ。試験結果か、規則破りの処罰なのか。いつ彼の口が開くのか慎重に待っていた。だんだんと、握っている手に力が入り込む。
「実は」
ようやく館長が口を動かした。
「わしはこれから旅に出る」
今までビクついていたボクは、意外なことに驚いてしまった。
「そこで、君にこの本を預かって欲しい」
机に置かれていたその本は、何一つ汚れていない真っ白だった。妙なことに、装丁はきちんとされているのに、題名がなかった。
近づくと長年仕舞い込んだ独特の匂いがしてきたことから、保存がよかったにせよ古い書物であることは、間違いない。
「手にとって見てごらん」と、館長の勧めに従って慎重に手にとってみるが、厚みのある本なのに、重さがまったく感じない。裏返してもやはり何もない。不思議な感覚を覚えながら、再び表に戻してみた。
指先から鼓動が全身へと、伝わっていく。
あの表紙に、点々と光る染みが浮かび上がってきた。まるで生きているみたいに、形を成し、文字となっていく。
気がついたときには、新刊同様の鮮やかな題名が刻されていた。
それは、サカサ語と呼ばれる失われてしまった文字だった。
この文字に対して、こんな例え話がある。
『ある賢者が1000の月をかけてすべて覚えたのに、いざ家に帰ったとたんに全部忘れてしまった』
ボクは文字を専門的に勉強してきたから、すぐそれだとに分かった。
『Koob Hturt』
題名を見て、ボクは眼を疑った。もし、自分の解釈が正しければ、この本はただの古文書の部類ではない。信じられなかった。でも、訊かないままにはできない。
「『真実の書』…ですね。知識の神と謳われた賢者ソフィーが作られたといわれる」
「た、確かにこれは『真実の書』だ。しかし、文字が光る現象が起こるなんて……」
やはりそうだ。これは世界の始まりを綴り、真実のみを語ったとされている。
いくら記録館とはいえ、伝説上の本があったなんて、すごい。
ボクは震える手で本を開いてみた。すでに破れた痕を発見して少々がっかりしたが、そのかわりにインクの滲みがなく、虫食いもないようだった。保存状態はいい。
もっとよく調べようと、ページをめくろうとしたそのとき、いきなり手に衝撃が走った。
「くすぐったいんだよ! もっと丁寧に扱え!」
「す、すみません」
本に手を挟まれたまま、頭を下げて謝った。もっと注意すべきだった。
記録館に貯蔵されている本の中には、言葉を発するものもいくつか存在する。
ボクが知っているかぎり、それらは話しかけても、返ってくるのはいつも変化がない。
こちらに反応して、喋る本に出会ったのは初めてだ。でも、いきなり噛み付くのはひどい。
いくら「放してください」と頼んでも、本は言うことを聞いてくれなかった。振り払えばいいことだが、そんな乱暴なことはしたくはない。
「……そういうことか」
館長は静かに椅子から立ち上がった。
「たった今から、君は『真実の書』の継承者だよ」
どういうことなのか訊こうとすると、館長は遮って続けて言った。
「いいかね。その本の文字を目にすることができるのは、サカサ語を読める者のみだ。それはわしが確認をしたから断言できる。しかし、本当に目覚めさせたのは、おそらく君が初めてだろう」
「そんな。わたしにこのような」 危ない、と言いかけた言葉を換えて、「大変な本の継承者だなんて」
「オレも冗談じゃない」
本がボクの手を放して、言い放った。
「ご主人様はソフィーだけだ」
「いきなりで戸惑うかもしれないけど、ふたりとも仲良くするんだよ」
ボクたちの訴えを軽く流して、館長は防寒帽を深く被った。そして、前々から用意していたのだろう、皮袋を机の下から引っ張り出し、反動をつけて背負った。
手早く旅支度をする様子を見ながら、世界中を旅したことがあると、館長が話してくれたことを思い出した。しかし、それはもう30年も前のことだ。今の館長に旅するほどの体力が残っているとは、思えなかった。
「旅の理由を…教えてください」
「真実を見つけなければならないのだ。それに…時間がない」
振り返らずに廊下に出てしまった館長を、ボクはあわてて追いかけた。
玄関まで付き合ったが、どうも納得がいかない。
また噛み付こうとして、ハスキー声を出す本に気をつけて押さえながら、ボクは弱々しく訊いてみた。
「本当に行かれるのですか?」
「そうだ。留守中は、副館長のメディア君にすべてを任せている。彼女にはもう伝えたから」
門の取っ手を掴もうとした手が止まった。
「この前の司書官課程への試験結果だけど」
思い出したかのように言われた言葉を聞いて、冷たい汗が首筋を伝っていった。
「よくがんばったね。合格だよ。でも、後でよく復習しておくように」
「はい」
「それから、夜中に書庫に忍び込むのもほどほどにしなさい」
「……はい」
館長は最後にボクの肩を軽く叩いて、門を開けると灰色の外へ出てしまった。
肌をさす氷の粒に打たれながら、ボクはあの色あせた外套が消えるまで、見送ることしかできなかった。