第17話『零れ落ちた言葉』
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「海、見えなくなっちゃったね。ザビ」
「ええ」
しばらく見れなくなるのかと思うと、少し淋しかった。
ごつごつとした岩が露出した平原は、どこまでも広がっていた。色のない空の下で、牧草ですら点々としか生えておらず、地形の起伏がくっきりとわかる。その合間を縫うように、川がゆるやかに東へ蛇行していた。あまりに荒涼とした景色。ボクは御者台から眺めながら、吹きつける冷たい風と雹にコートの襟をかき寄せた。
荷馬車はジャリジャリと音をたて、やがて緩やかな坂を上っていく。両側の高い土手には、ヒースが茂っていた。風の山頂でもよく見かけた背の低い植物だ。
記録館を出てから2週間が経ったんだ。いつもだったら自室に篭って勉強をしていただろう。司書官になるために、毎日ずっと……。ふいにそのことを思い出した。だけど今は、8年間も暮らした場所から遠く知らない土地にいる。これからもっと離れていく。この旅がどのくらい続くか、再びあの館に戻れるのか見当もつかない。
「名残惜しそうだね」
手綱を握るドロシーに声をかけられ、我に返った。
「ヒースに花でも咲いてたら、少しは慰めにもなったかもしれないけど」
「花、ですか?」
「知ってる? ヒースの花を見つけたら幸せになれるって」
彼女にこういう一面があるなんて、ボクは驚いた。
「姐ちゃんって、意外にロマンチストなんだな」
すると、ドロシーが大声で笑い出した。
「なんてね」
そして、おどけた声で言った。
「こんな女神に見放された大地に、花だなんて。小さな女の子じゃないんだし、我ながらバカバカしいよ。今のは忘れな」
ドロシーは深く白い息を吐いた後、何事もなかったかのように前を向く。ボクはその様子をじっと見ていた。彼女の目線が徐々にうつむき加減になっていく様から汲み取ったのは、決して軽い気持ちで言ったのではないかもしれないということだった。
幾つものわだちで窪んだ道を荷馬車がさらに走ってゆくと、低い丘の上に出た。
「あ」ブックが叫んだ。「止まって!」
ドロシーは慌てて手綱を引いたと同時に、後ろで何かぶつかった音が聞こえた。
「なんだ急に」
ライが額を摩りながら荷台から顔を出した。
「あそこ! ほら、下を見て!」
そこに目を向け、はっとなった。せいぜい20メートル程のこじんまりとした沼だ。細く弧を描く形状は、天文学の本で見た新月に良く似ている。そして色は、叫んでいるかのような熱く濃い朱色だった。ボクは御者台から降り、丘の上から見下ろした。
何故だろう。あんなにも恐ろしく妖しい色なのに、何かが呼んでいる感覚さえあった。決して前向きな魅力ではなく、ネガティブに心が引き寄せられる。
「まるで赤い引力ですね。じっと見ていると、あそこに行って何もかも沈めたくなるような気さえ起しかねません。……あの沼も満ちたり、引いたりで形が変わるんでしょうか」
「向こうに川が見えるだろ」
ライが隣にやってきて、くねくねと曲がっている川を指差した。
「水位によって沼の形も変わってくるそうだ。今は水位が一番低い時期だな」
「詳しいですね。以前いらしたことがあるんですか?」
「ん? まあな」
なんとなしに歯切れが悪いような言い方だった。
「それはそれとして、『あそこに行って何もかも沈めたくなる』というのはなんだ」
「聞き流してくださってもよかったのに。ただの冗談ですよ」
もちろんそのつもりだ。でも、ライは信じていないらしく、憮然として睨んでいた。
「ボクだって、冗談の1つや2つくらい言えます」
しばらくして、「やれやれ」と彼は疲れきったようにため息を吐いた。
「あまり心配させるな」
「……すみません」
「気が済んだのなら、戻るぞ。オーナーも待ちくたびれてるしな」
ライの後に続いて、戻ろうとした。
「変わっちゃったな。あの頃は琥珀色をしていて……本当にきれいだったのに」
足が止まり、腕の中にいるブックをじっと見た。ブックは何を言っているのだろう。ボクは言葉の意味が理解できなかった。しかし、凍結した認識から徐々に思考が追いついてきた。真っ先に思い当たったのは、ブックが生まれた時代だ。それでも容易に受け入れられなかった。
「え?」
と、ようやく聞き返したが、それ以上の言葉が出なかった。
「思い、出した。オレはあの沼に来たことがある。たった一度だけ。ソフィーと一緒に」
ああ、やっぱり。ソフィーの名前が出たとき、悟った。ブックは昔を――300年という遠すぎる過去を重ねて見ていたのだ。
「ソフィーは本当に喜んでくれたっけ。オレも駄々をこねたかいがあったと、嬉しくなってつい悪戯しちゃったら、あいつ沼に落ちてずぶ濡れになって……悪いことしちゃったな」
その沼を眺めながら、ブックとソフィーは何を語ったのだろう。
本当はたくさん知りたかった。ブックのことをもっと分かりたいと。それとは逆に、大切な思い出に他人が入り込んではいけないと、制止をする自分がいた。その人との繋がりが深ければ深いほど、ボクはそれを聞くのが怖くなってきた。
「なんだよ。何か言いたいことでもあるのか?」
「いいえ」
悟られてはいけない。ボクは咄嗟に笑みを取り繕った。
「きっと、とても素敵な満月だったんでしょうね」
満、月……? ボクは、何を言っているのだろう。まるでそうであったかのように。
その時「おーい」と、呼ぶ声が聞こえてきた。いけない。ドロシーたちを待たせたままだ。
「月の観測は済んだ?」
「すみません、ドロシーさん。待たせてしまって」
「いいから早く乗りな。野営場所も見つけないといけないし――わっ」
前方から押し返すくらいの強い風が吹いてきて、あわてて帽子が飛ばされないように抑えた。微かだが、焦げた匂いと、錆のような匂いが鼻につく。
――こういう風が吹く日は、気をつけた方がいい。
耳元に聞こえた母の声。
――人が、たくさん死ぬ日だ。
思わず振り返った。さっきまで見ていた朱色の沼は、まるで予兆を示しているかのように一層色に深みが増していた。
「まさか、ね」
幻聴にしてはあまりにもリアルすぎる。でも、貴女は死んだ。そうでしょ?
「どうした?」
ドロシーは怪訝そうにボクの顔を覗きこんだ。ボクは「なんでもない」とだけ答えて、御者台によじ登った。
「出発するよ」
それっと、馬に鞭を入れた。
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2007/12/08 黄伊魔